『白老(はくろう)』で知られる、知多半島は常滑市の「澤田酒造」さんは、昔ながらの製法を守る伝統の酒蔵です。澤田酒造さんのお酒は、麹蓋を使って手作業で造る手間暇のかかった麹と、和釜や木製の大樽を使って丁寧に造られています。白老の「白」は“お米を白く磨く”、つまりよいお酒を作ることを表し、「老」はお客様の延命長寿を祈願して命名されたのだそうです。
今回は、澤田酒造株式会社取締役副社長兼蔵人の澤田英敏(さわだ ひでとし)さんに酒蔵をご案内いただきながら、創業1848年から守り続けてきたそのこだわりと、知多半島の歴史についてお話をうかがいました。
知多半島・常滑市、古式伝承の酒蔵『澤田酒造』の酒蔵見学
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速醸法のはじまりと澤田酒造
蔵見学の前に、英敏さんが「速醸法(※)」がどうやってうまれたのかを詳しく説明してくださいました。
(※)速醸法:乳酸菌の増殖によって乳酸を生成させることなく、乳酸を添加して早く酛(もと:酒母)を作る方法
国の政策により、腐造のもととなる火落ち菌を防ぐ乳酸連醸法が開発される
江戸時代より海運の要所であり、尾張藩の後ろだても大きかった知多では、昔から酒造りが盛んでした。江戸時代から明治にかけては灘に引けをとらないほどで、200軒以上もの酒蔵があったそうです。
そもそもこの速醸法を一番初めに作ったのは新潟の酒蔵さんだったそうなのですが、やはり安定した酒造りは一軒の酒蔵の研究では到達できなかったため、国として新しい酒の造り方を研究しようということになり、腐造のもととなる火落ち菌を防ぐ乳酸連醸法の開発が始まったのでした。
明治時代、国の財政を支えていた酒税
明治時代、国の財政を安定して支えていたのは酒税でした。酒蔵にお酒を安定的に造らせて税金を徴収することが、国にとっては大変重要なことだったのです。
明治17年、度重なる増税への危機感から、知多の酒蔵が集まり「豊醸組」を結成
明治17年、度重なる増税への危機感から、知多の酒蔵が集まり「豊醸組」という組合が結成されました。当時、酒の市場は灘に独占されており、知多の酒蔵は減る一方。また今ほど酒造りの知識もなかったため、腐造が続き倒産するところも少なくありませんでした。
当時、日本酒は“神様がつくってくれる不思議な飲み物”と思われていた
実際にパスツールが低温殺菌法(パスチャライゼーション)を見つけるのが1876年なのですが、日本は鎖国が長かったため、日本酒の製造方法は明確には分かっていませんでした。よって、日本酒は神様がつくってくれる不思議な飲み物、飲んだら気持ちのよくなる飲み物だと思われていたのだそうです。
先端技術で質のいい酒を造ろう!と立ち上がったのが「豊醸組」
年々激減する醸造量と灘への対抗意識から、西洋から入ってきた学問や顕微鏡などの道具を駆使した先端技術で質のいい酒を造ろう!と立ち上がったのがこの「豊醸組」。
澤田酒造の蔵で開発された乳酸連醸法。明治44年には速醸酛の開発も
豊醸組の醸造試験場となった澤田酒造の酒『豊醸』
澤田酒造の蔵では大蔵省醸造試験所より江田鎌次郎技師をお招きし、今の日本酒造りのスタンダードとなる速醸法の原型の研究が行われ、乳酸連醸法が開発されました。腐造の原因である雑菌の繁殖を防ぐのが乳酸だということがようやく分かり、明治44年(1911)には速醸酛が開発されました。
こうした切磋琢磨の歴史から、白老は今でもその速醸法にこだわった姿勢を取り続けているんですね。
安定的な酒造りのために多くの酒蔵が協会酵母を使用する
腐造とは酒蔵にとっては恐れるべき存在であり、古来より安全醸造が重視されてきた、という背景があります。多くの酒蔵が協会酵母を使っているのは安定的な酒造りのためです。「生酛(きもと)」と謳われていると「自然界のものでこんなに美味しいものができるのか~」という印象を持たれがちですが、実のところ現代の技術ではそれだけで品質の安定したお酒を造ることは難しく、そのために協会酵母が存在するのだろうとおっしゃっていました。
知多半島が酒造りの地として発展したのはなぜか?
続いて英敏さんが、知多酒がなぜそれほどに栄えたのかを、とても分かりやすく説明して下さいました。
酒株制度で財政が潤っていた尾張藩にとって、知多で酒を造らせることは得策だった
昔は、どぶろくは普通の家庭で日常の酒として造られていたのだそうですが、そのうちお米と同じようにお酒にも税が課されるようになります。「酒株(さけかぶ)制度」ができてからは、ついに勝手にお酒を作ることは禁止され、幕府から酒造権利を買わなければならなくなりました。この酒株制度のお陰で徳川幕府の尾張藩の財政は潤っていため、知多で酒を造らせることは幕府にとって効率が良かった。それが知多で酒造りが栄えた理由のひとつに挙げられます。
大火事後の復興のため多くの人が集まった江戸。そこで需要が高まった酒を素早く供給できたのが知多だった
By 田代幸春 (戸火事図巻(江戸東京博物館 Edo-Tokyo Museum :収蔵品)) [Public domain], via Wikimedia Commons
また、江戸時代の建築はすべて木造であったため、100年か200年に一度、江戸の町は火災に見舞われていました。(有名なものに、1683年、八百屋お七の振り袖大火の話で知られる「明暦の大火(めいれきのたいか)」があります)
一帯が全焼してしまうので町は財政難に陥り、町の復興のため職人も武士も江戸に集まってきます。そしてその時飲まれるものといえば、お酒以外になかったため、その需要を満たすためにどんどん日本酒が造られるようになりました。その頃、飛脚や薬売りなどが「江戸にお酒が足りていない」という情報を兵庫県にまで流していたのですが、地理的に愛知県はその道程にあったため、すぐさま情報を得ることができ、江戸にお酒を速やかに出港することができたということでした。
「灘から江戸」より「知多から江戸」に酒を運ぶほうが地理的にも優位
さらに言うと、灘から江戸に船で酒を運ぶには紀伊半島を太平洋沿いに回る必要があり、台風や荒波等で余分な時間がかかっていました。しかし、愛知県半田市からの海運はその半分の時間で運べるため、江戸にジャストインタイムでお酒を届けることができ、地理的にも優位であったと言えますね。
船や鉄道の進歩により知多半島の地理的アドバンテージは薄れ、酒造りは衰退の道を辿る
ここまで栄えた知多酒ですが、江戸幕府が倒れてからは酒造りの後押しがなくなってしまいます。また、その頃から船の技術が進歩し、蒸気船ができました。また、陸運では鉄道ができたりと、運搬が早く安全に行えるようになり、知多半島の地理的アドバンテージは薄れ、酒造りは衰退の道を辿りました。
知多半田の醸造文化
明治4年(1871)には、今の名古屋市南区も含め、知多半島には227件の酒蔵(みりん醸造蔵含む)がありました。
実は、澤田酒造さんはもともとは本家ではなく、次男がやり始めた分家だったそうです。
常滑市にある本家の酒蔵は『ねのひ』というお酒で知られる「盛田酒造」で、ソニーの創業者、盛田昭夫さんのご実家であることでも知られています。お酒を売ったお金をソニーの開発にあて、斬新なものを作るための潤沢な資金としてまわしていたのですね。
愛知県半田市には、一族経営の「ミツカン」と「中埜(なかの)酒造」がある
そして半田市には「ミツカン」本社があります。実はミツカンでも以前は日本酒を造っていて、今でも『國盛(くにざかり)』というお酒を造る「中埜(なかの)酒造」があります。ミツカンと中埜酒造は一族なのだそうです。
江戸前寿司の発展に貢献した、愛知県半田市発の「粕酢(酒粕からつくった食酢)」
その当時、日本酒造りで大量に出た酒粕をなんとかお金にできないかと頭をひねっていた当主は、江戸に行った際にお寿司の流行を目にしました。そして、お寿司が流行しているこのタイミングに「粕酢(酒粕からつくった食酢)」を海運にのせて江戸に持っていったら売れるんじゃないか? そういうアイデアを思いついたことから、江戸前寿司という文化が江戸で爆発的に広まったのだそうです。
米と魚を発酵させる熟鮨(なれずし)が寿司の原型。酢飯と刺身の寿司が広まったのは江戸時代中期から
お米と魚を重ねて発酵させてから食べる鮒鮨(ふなずし)などの熟鮨(なれずし)がお寿司の原型とされます。現代の一般的なお寿司とされる“ご飯にお酢を混ぜて、刺し身を乗せて食べる文化”は、この江戸時代中期から後期に生まれたのでした。
粕酢は今でも半田市と知多郡阿久比(あぐい)町で造られている
ちなみにこの粕酢は、今でも半田市と知多郡阿久比(あぐい)町で造られています。古来より日本のお酢造りに採用されている「静置発酵法(表面発酵法、長期発酵法とも言われる)」が用いられ、常温製造法にこだわって造られているのだそうです。
お酒やお酢だけじゃない!豆味噌、たまり醤油もある知多半島
知多半島にはお酒とお酢だけでなく、豆味噌、たまり醤油もあります。
酒造りに使えなくなった道具が、味噌や醤油蔵で転用されていた
「なるほど!」と感心したのは、227軒あった酒蔵で使われていた木桶や甑(こしき:大型の蒸し器)は、使い込んでいると隙間が出てきて酒造りには使えなくなるため、それを味噌造りなどに転用していたという事実です。
そこから発酵醸造文化がどんどん発展していった、というのも頷けるお話でした。知多半島にある味噌や醤油蔵のルートを辿ると、「もともとは酒蔵だった」あるいは「隣に酒蔵があった」という話が多いのだそうです。
質の高いこだわりの発酵食品が揃う唯一の場所、知多半島
食品業界で15年働いていた英敏さんも驚くほど、「日本国内で、ここまでのこだわりを持ったクオリティの高い発酵商品が揃っている場所は、知多半島以外ない。塩も知多郡美浜町に塩田があるので、砂糖以外は全部ある!」とおっしゃっていました。
八丁味噌と知多半島の豆味噌
八丁味噌とは、愛知県岡崎市八帖町の味噌蔵「カクキュー八丁味噌」と「まるや八丁味噌」で造られた豆味噌のこと
また、全国的に有名な八丁味噌は、岡崎城(徳川家康が生まれた城)から西へ八丁(約870m)の距離にある岡崎市八帖町(旧八丁村)で造られた豆味噌のことです。八帖町にある2つ味噌蔵「カクキュー八丁味噌」と「まるや八丁味噌」が、江戸時代初期よりお互いの腕と味を磨き合いながら伝統製法で作り続けている、とても深い味わいを持った豆味噌のみが、八丁味噌と呼ばれます。
八丁味噌の原料は大豆と塩だけ。二夏二冬(ふたなつふたふゆ)の熟成を経て出来上がる
八丁味噌の原料は大豆と塩だけ。大豆はすべて麹にし、塩と水だけを加え杉桶に仕込みます。その上から石を積んでいき、天然醸造で二夏二冬(ふたなつふたふゆ)以上の熟成を経て、ようやく八丁味噌が出来上がります。
知多半島でも、「中定(なかさだ)商店」さんの『宝山味噌』などの豆味噌が造られている
知多半島でも豆味噌は造られています。知多郡武豊町にある「中定(なかさだ)商店」さんの豆味噌『宝山(ほうざん)味噌』を頂くことができたので、八丁味噌と食べ比べてみたのですが、それぞれに深い味わいがあり、旨味、コク、甘味や酸味、渋みの違いが特徴的でした。
知多半島の味噌造りは、海賊から教わった!?
当時、文化は上方の方から入ってくるのですが、伊勢湾を治めていたのは海賊でした。知多半島は資源も住人も少なかったので、武将ではなく、水軍(今で言う海賊)がこの地を治めていました。その水軍たちも仲間が欲しいので、半島に住んでいた漁師さんなどに味噌の造り方などを教えて、味方にしようとしていたのだそうです。
千賀水軍から造り方を教わった「徳吉(とくよし)醸造」の『千賀(せんが)みそ』
その分かりやすい例が、知多半島の先、知多郡南知多町の「徳吉(とくよし)醸造」さんで造られている『千賀(せんが)みそ』です。このお味噌も、このあたりを治めていた千賀水軍から造り方を教わったということでした。
知多半島の先端の地域では「今でも手前味噌を造っている家が圧倒的に多い」のだと、英敏さんに教えていただきました。
地酒としての『白老』と時代の変化
英敏さんの発酵講義はまだまだ続きます。
知多半島の料理は、爆発的に味が濃い
この地域の醤油も、豆だけで仕込まれた「たまり醤油」なので味が濃く、塩度の高い豆味噌も相まって、知多半島の料理は爆発的に味が濃いのだそう。その料理に合わせるためのお酒が、澤田酒造のお酒です。
20年前に流行した“辛口淡麗”とは真逆のお酒『白老』は、知多半島では人気ベストワン
澤田酒造の『白老』は「甘い、重い、キレがない」という、20年前に流行った辛口淡麗の日本酒とは真逆の味でした。一般的には、白老の味わいは重すぎると捉えられたのか、当時は全く売れなかったそうなのです。しかし、知多半島の地元の方々にはベストワン、と不動の人気がありました。
知多半島の料理に合わせた『白老』が、今では県外でも人気のお酒に
近年では、元来より革新的な酒蔵である澤田酒造さんらしく、少し考え方をひねり、白老は県外でも人気のお酒となりました。
知多半島の食に合わせて造っていた白老のコンセプトはそのままに、少し造りを組み替えることで、昨今味わいがしっかりしてきた和食と、逆にさっぱり系になってきた洋食、それぞれに合わせることができるんじゃないか、という目の付け所が見事に白老のヒットに繋がりました。
味が濃いものに対しては、味がしっかりしたお酒を合わせないと「飲んだ気がしない」
英敏さん曰く、淡麗辛口のお酒は飲み口が良く、塩辛や炙った魚などには抜群に合うとのこと。しかし、たまり醤油で煮た魚などに合わせると、食の味が強すぎてお酒の味が流されてしまい、水のように。「それでは結局。何を飲んでいても一緒」ということになってしまうのだそうです。なので、知多半島の料理のように味が濃いものに対しては、味がしっかりしたお酒を合わせないと「飲んだ気がしない」。
地酒とは、各地域の食文化に合うお酒として造られるべきもの
「地酒というのは、本来は地域の食文化に根付いているものです。例えば、岐阜県で造られる地酒は、山の幸や川魚などに合わせやすくなっています。また、新潟県で造られる地酒は、日本海で獲れた魚などに合う。静岡県の地酒はマグロなどに合わせやすくなっている、というように、各地域の食文化に合わせて造られるお酒が地酒です。
例えば、旅先で飲んでおいしかった地酒をお土産として買って帰って、家で飲んでみたら『あれ~っ?』と思ったことはありませんか? 旅先と自宅では、食べ物や空気、土着菌なども違うので、お酒の味が違うように感じられるのは当然のことなのです。
このように、各地域の食文化に合う地酒として楽しまれていたお酒ですが、今はそれが変わってきています」と英敏さんは語ります。
“郷土食”が見えにくくなり、均一的でわかりやすいお酒が求められる昨今
「今はスーパーなどの量販店が全国にあって、“郷土食”という各地の食文化の特徴が見えにくくなっています。よって、均一的なお酒、例えば、フルーティ、甘い・辛いなどのメリハリがハッキリした分かりやすいお酒がウケているのが現状です。
均一的で分かりやすいお酒ばかりができるのは面白くないと思うのですが、そこからまた、日本酒の新しい時代が始まっていくのではないかと思っています」(英敏さん)。
機械のイノベーション化によって、日本酒はどんどん飲みやすくなっている
日本酒が飲みやすくなっている理由として、ある程度の機械のイノベーション化(蔵の空調管理や雑菌対策など)が挙げられます。それによって明らかに腐造が減少、味もクリアになり、フルーティーな酵母を使うなどした口当たりのいいお酒が造られるようになっています。例えば、酵母自体が弱い場合、酒母を造った後すぐに酵母が崩れます。しかし、完全冷蔵やマイナス3度くらいまで温度を落とせる空調設備を整えることで、酵素が死活しない状態をキープして新鮮に出荷できたりなど、機械と分析の仕組みが日本酒の飲みやすさに大きな役割を果たしているようです。
造り方時代は複雑になってきていますが、味自体はポップで飲みやすいね、と言われるようになっているのが、昨今の日本酒事情なのだということでした。
知多半島・常滑市、古式伝承の酒蔵『澤田酒造』の酒蔵見学
https://haccola.jp/2018_03_27_6775/
関連リンク
澤田酒造
澤田酒造オフィシャルサイト
澤田酒造オンラインショップ
白老(はくろう)