圧倒的な旅立ちを見せた料理家・舘野真知子の存在。「食卓を囲もう」に込めた、自分らしい生き方の追求

8.1K

2022年5月1日、料理家である舘野真知子さんが逝去されました。テレビや雑誌、書籍の執筆などを通して、発酵食品の魅力をさまざまなかたちで伝えていた舘野さん。ハッコラでもぬか漬けのアドバイス白菜漬けのこと、そして漬け物に特化したご著書から漬け物への思いなど、たくさんのお話を聞かせていただきました。

今年2022年の春先から新しい本の制作に取り掛かっていた舘野さんは、お医者さまも驚くほどたくさんの奇跡を見せながら、全ての仕事を全てやり終えた三日後に息を引き取られました。11月に発売された『がんばりすぎない発酵づくり』(文化出版局)は文字通り、舘野さんの人生の集大成です。

2022年11月に発売された新著『がんばりすぎない発酵づくり』表紙。キッチンで手軽に仕込めて、日常的に活かせる発酵食品とレシピ、舘野さんのコラムなどと一緒にまとめられています。
2022年11月に発売された新著『がんばりすぎない発酵づくり』表紙。キッチンで手軽に仕込めて、日常的に活かせる発酵食品とレシピ、舘野さんのコラムなどと一緒にまとめられています。

体調の変化を自覚しながら、どんなお気持ちでお料理に向きあっていたのか。あの弾けるような笑顔の影にどんな思いを抱えていらっしゃったのか。舘野さんのお仕事を振り返ることで、少しでもその情熱や思いを感じることができたらと思い、舘野さんに最後まで伴走されたマネージャーの松本岳子さんを訪ねました。

松本さんは取材場所に舘野さんのご自宅を提案くださり、舘野さんの夫・小林一匡さんと、最後の瞬間に付き添われた親友の木戸久美子さんもご一緒くださいました。

マネージャーの松本さん(写真左)と舘野さん(右)
マネージャーの松本さん(写真左)と舘野さん(右)

使う人の気持ちに寄り添う料理本をつくる

ー今度の書籍『がんばりすぎない発酵づくり』はどんな本ですか。

松本さん 以前、雑誌『ミセス』で(舘野)先生が担当した内容を元に、新たなレシピやコラムを追加したものです。書籍の製作はそれ自体がかなりの熱量を要するもので、ひとつ前の本『くり返し作りたい 糖尿病のおいしい献立』を出した後は、先生も特に新しい本の制作は考えていませんでした。しかし編集の鈴木百合子さんから「発酵の本をつくりませんか」とお話をいただき、体調などを考えて少しだけ悩んだ様子はありましたが、思い入れのある企画だったし、よく知る鈴木さんが編集を担当くださることが大きかったようです。

鈴木さんに「発酵は一過性のものではなく、日本人に寄り添ったものだと思う。以前の企画も身近な道具でつくれるのがとても良かった」と言っていただいたことに、先生も心を動かされていました。

それに鈴木さんは、本の完成イメージもお持ちだったんです。「真知子さんの料理は生活の中にあるものだと思うから」と、シンプルで、わかりやすく、コンパクトなサイズで、いつも台所に置けて、気軽に手にとって作れるようなレシピ本をイメージして提案くださって、先生も信頼を強めていましたね。打ち合わせの後、気持ちを理解してもらえて「すごく嬉しい」と仰っていました。

舘野さんはこれまでも、発酵食や家庭料理の魅力を数々の書籍などを通して紹介していました。
舘野さんはこれまでも、発酵食や家庭料理の魅力を数々の書籍などを通して紹介していました。

松本さん 「体力がもつかな」と心配そうなことも言っていましたが、私も「先生がやりたいならサポートします。だって私がその本、欲しいですもん」と背中を押したんです。その日の夜、こばさん(舘野さんの夫・小林一匡さん)が帰宅後すぐに相談して、先生がやりたいならやろう、と書籍の話が決まりました。

書籍の追加撮影は全てこのご自宅のキッチンで行ったので、今までの本よりもさらに先生らしさを感じていただける一冊になりました。葉山に引っ越してからの先生がどんなライフスタイルだったのかも伝わると思います。

松本さん この前に出た糖尿病の本も、先生のキャリアと人柄が集約されています。先生がすごく考えながら、とても時間をかけて作った本です。というのも最初は、管理栄養士としての先生のスキルを活かして、糖尿病の人が楽しめるレシピ集を、という企画だったんです。でも途中で「病気になっても食べられる料理ではなく、生活習慣病に向き合えるような、日常生活を変えられる食事内容が必要なのでは?」と話し合いました。

結局、1週間ごとの買い物リストを作り、その食材を余らせずに使い切れるレシピを組み立てることになったんです。もちろん糖尿病の方でも食べられる栄養バランスで、それも、ご家族と一緒に同じ食事ができるように考えてあるので、糖尿病ではない方もおいしく楽しんでもらえます。手に入りやすい食材で再現性の高いレシピを考える先生はかなり大変そうでしたが、それでも「病気の人だけが違うメニューになってしまうのは、自分も家族も辛いはず。精神的な支えとして家族と一緒に食事ができることが大事」と、本を手にする方のことをものすごく考えていました。

2021年に発売された『くり返し作りたい 糖尿病のおいしい献立』(株式会社西東社)から
2021年に発売された『くり返し作りたい 糖尿病のおいしい献立』(株式会社西東社)から

大好きな人たちと、愛のある活動を

ー松本さんと舘野さんのご縁はいつ頃からですか。

松本さん 先生のマネージメントをしている会社に入ったのが2016年なので、丸6年ですね。私はキッチンスタジオの運営とPR業務のアルバイトとして入社して、先生はその頃、料理家としての仕事が多くなった頃でした。

細かな調整や撮影準備などがおひとりでは難しくなり始めて、弊社にマネージメントもしてもらえたら、と相談してくれたんです。私は元々パティシエだったので調理補助もできるし、先生も喜んでくれたのを覚えています。先生との仕事がとにかく楽しくて楽しくて、会う度にいろんな話をしました。一緒に出張に行くことなども増えたので、入社の時には考えてなかったのに、先生との仕事がしたくて正社員になったくらいです。

松本さん 料理研究家にもいろんな方がいて、それぞれに魅力がありますが、先生のすごいところは、網羅していることの幅広さにあったと思います。元々ご実家が農家さんで、生産者さんの気持ちや立場も理解されていましたし、何より食材の良さが料理に影響することを本当に強く実感されていました。いろんな事におおらかな先生でしたが、食材選びにはとてもこだわっていました。

またキャリアの最初が管理栄養士で、実際に病院の食事を担当していた実績があり、その後、再び学んでから飲食店のキッチンを切り盛りしていた経験もある。さらに料理研究家になってからはメディアの仕事もたくさんしていました。どれも似ているようで異なる領域なので、それぞれの経験を発揮していたんです。野菜の切り方は的確で、大きさもきれいに揃ってるし、それでいて作業はものすごく早くて無駄もない。栄養バランスが考えられたレシピと、見た目の華やかさと、さらに実際に食べたらおいしい、というバランスを取るのは簡単ではないことですが、先生はそれができる料理家でした。

取材中、舘野さんの夫・小林さんが焼いてくださったレアチーズケーキが登場。香ばしくもしっとりしたビスケットに、ふんわりクリーミーにとろけるチーズが絶妙な、とってもおいしいケーキでした。
取材中、舘野さんの夫・小林さんが焼いてくださったレアチーズケーキが登場。香ばしくもしっとりしたビスケットに、ふんわりクリーミーにとろけるチーズが絶妙な、とってもおいしいケーキでした。

ーなんておいしいチーズケーキ!小林さんが焼いてくださったんですか。

小林さん このチーズケーキはまち(舘野さん)と一緒に素材を研究したレシピで、友達が遊びに来る時に作ったりしてるんです。以前、すごくおいしいお店のチーズケーキを食べて、どうにか自宅でも作れないかと思っていたら、偶然にもそのお店がテレビで紹介されてるのを見たんですよ。作り方も話していたので、じゃあやってみようと作ったものの、なんか違う。そしたらまちが、そのお店がどのチーズを使っているのか探り始めたんです。ネットで根気よく調べて、いろいろ試した結果、今の味になりました。(おいしいおいしいと連呼する筆者に)ありがとうございます、素材が決め手ですよ。

松本さん 先生もこばさんのチーズケーキが大好きでしたよね。

舘野さんの夫、小林さん。出会ってから19年の時間を一緒に過ごされた。
舘野さんの夫、小林さん。出会ってから19年の時間を一緒に過ごされた。

ー木戸さんはお住まいもお近くですね。

木戸さん 4年前にまっち(舘野さん)とこばちゃんが葉山に引越してきてくれたのでご近所になりましたが、知り合ったのはもっと前です。まっちが「六本木農園」という飲食店の初代料理長だった時に、私は運営母体の会社に勤めていたのがご縁でした。かれこれ付き合いは10年以上になります。普段からよく連絡を取り合っていましたし、今年に入ってからはまっちの体調を心配しながらも、かつての同僚たちと旅行に行くこともできました。

舘野さんと一緒に梅仕事をする木戸さん(左)。仕事を通して出会い、家族ぐるみで親しかった木戸久美子さんは、舘野さんを最後まで暖かく励まし、そして見送られました。
舘野さんと一緒に梅仕事をする木戸さん(左)。仕事を通して出会い、家族ぐるみで親しかった木戸久美子さんは、舘野さんを最後まで暖かく励まし、そして見送られました。

木戸さん 春にまっちが体調を崩してからはちょくちょく様子を見に来て、特に最後の10日間は毎日来ていました。亡くなられた日は、来たときになんとなく予感がして、泊まることにしたんです。連日の看護で寝ていなかったこばちゃんに休んでもらって、私がまっちの隣で寝ていた時でした。眠りながら、とてもおだやかに逝かれたまっちに付き添えて、改めて彼女の人徳の高さを感じた経験でした。


木戸さんは、舘野さんを見送った時のことをSNSで丁寧に綴っています。

退院後、急変の4月。

ー春先からご自宅で療養されていたんですね。

小林さん 2月末から3月にかけて入院して、その後は自宅で過ごしていました。彼女は10年ほど前に大病をして、それ以来、仕事を含めていつも「自分の人生で、あと何ができるだろうか」と考えているようなところがあったんです。

この何年間もずっと元気だったんですが、去年の夏に一度体調を崩して入院して、そこから一層真剣に、自分がやるべきことに集中して積極的にやっていきたいと話してました。その後はしばらく体調も良くて、お酒も飲んだりして、2月末に入院するまでは普通に過ごしていたんです。昨年末には新しいプロジェクトとして、自宅を開いて料理をふるまう「ままごとや」という食のプロジェクトを計画していたくらいでした。

松本さん そうでしたね。ちょうどこの本(『がんばりすぎない発酵づくり』)のお話が決まった頃で、「ままごとや」を考えながらも春はまず本作りだね、と話してました。でも3月に退院した後くらいから具合が悪そうな日が増えて、「なんだか調子が戻らないんだよねぇ」と言ってた時もありました。

舘野さんは長い間、子どもたちに味覚について知ってもらう食育プログラムも行なっていた。
舘野さんは長い間、子どもたちに味覚について知ってもらう食育プログラムも行なっていた。

自宅療法の中でプロとして続けた仕事

小林さん 2021年頃から左腕がうまく動かせなくなり、今年の退院後も、腕の痛みを和らげる痛み止めで、寝ている時間が増えていました。起きてる時はいつも通りなんですけど、でも長い時間寝てしまうと、起きた時に少し意識が混濁する時もあったりして、本人も戸惑ってしまうことがありました。顕著に体調が悪くなったのは今年の4月初め頃。松本さんが来て、自宅で料理の撮影がある日でしたね。

松本さん 4月12日でした。その日は先生おひとりで撮影する予定でしたが「ちょっと自信ないからヘルプしてほしい」と連絡があり、サポートしにうかがったんです。でも来てみたら先生はとても具合が悪そうに横になっていて、「できることは私がやるので休んでいらしてください」と声を掛けました。作業のためレシピがどこかと聞いたら「まだ途中までしかできてない」と言われたんです。予定までにレシピができあがっていないなんて、先生に限っては過去に一度もなかったので、あ、これはちょっとこれまでとは違うのかもしれない、と感じました。

ただそれでも、起きてる時はいつも通りの先生だったんです。明るくて、冗談もたくさん言ったりして。でもその頃「一つの仕事を終えてからじゃないと次の仕事が考えられない」とおっしゃって、この新著のための追加レシピ案もなかなか決められずにいました。なんとか、ひとつ考えては休み、またひとつ考えては休み。そんな時でも先生のアイディアはやっぱり素晴らしくて、編集の鈴木さんも「さすが舘野先生だね」と話されていたほどです。いま思えば、あれも奇跡的なことだったんですよね。

イタリアやアメリカなど、海外で日本食を紹介する活動にも取り組まれていた。
イタリアやアメリカなど、海外で日本食を紹介する活動にも取り組まれていた。

松本さん またスタイリングと撮影準備のために4月21日にご自宅にうかがった時は、訪問医さんやケアマネさんといった来客も続きました。先生も疲れてしまい、途中で昼寝をしたりしながら、なんとか翌22日の撮影準備を終えました。

この日ケアマネさんたちと話せたことは、あとあと先生の最後に付き添う時にすごく大きな助けになりました。でもわたし自身はこの日、先生がどうなってしまうのか心配で、帰りの電車の中で泣いてしまったことを覚えています。そして翌22日の撮影では、先生は午後からほとんど起きていることができませんでした。

小林さん 寝てる時間が長くなっても、起きて仕事をする時はしっかり覚醒していたので、松本さんから「22日の撮影中ほとんど寝てしまった」と聞いた時は、さすがに変だと思ったんです。すぐ病院の先生に電話したら、夜21時を過ぎていましたが訪問医の先生が来てくれました。しかしその時、連日診ていた訪問医の方から「残された時間はあと1週間ほど。その次の週末は分からない」と言われてしまったんです。まさかそんな、と言葉を失いました。

4年前、川崎のマンションから引っ越した葉山のご自宅は、たくさんの調理器具や食器が機能的に配置されている。引越して以来、舘野さんの味噌など発酵食はさらにおいしくなり、料理もどんどんシンプルになったそう。
4年前、川崎のマンションから引っ越した葉山のご自宅は、たくさんの調理器具や食器が機能的に配置されている。引越して以来、舘野さんの味噌など発酵食はさらにおいしくなり、料理もどんどんシンプルになったそう。

10日間、奇跡のような連日の“フェス”とは

ーそれは…びっくりされましたね。お医者様には、その時、書籍の制作中であることも相談されていたんですか?

小林さん 限られた時間の過ごし方を相談しながら、今作っている本の仕事をどうするのがいいかと相談しました。そしたらお医者さんが「ご本人がやりたい仕事であればさせてあげた方がいい」とはっきり言ってくれたんです。その先生は、これまでの訪問でまちの話をたくさん聞いてくれていたので、彼女が延命処置を望んでいないことや、最後まで自宅で過ごしたいと思っていた気持ちをとてもよく理解してくれていました。

「日中、長く寝ているのは、起きた時にいい仕事ができるよう体力を温存している証拠。もしも寝ている間にその仕事を取りやめにしたら、もう心が折れてしまうかもしれない」と言ってくれて。それで僕も心を決めて、編集の鈴木さんにもご理解いただき、制作を続けてもらったんです。

木戸さん そこからの10日間は本当にすごかったよね。

松本さん すごかったですねぇ。

ー何がすごかったんですか?

木戸さん こばちゃんは会社を長期休みして付き添い、松本さんもまっちが覚醒したタイミングでいつでも仕事ができるように泊まり込んで、新しい本をつくるというまっちの願いを叶えるために最大限、万全の体制でサポートしていました。

そこに、まっちのご家族もいらっしゃるし、訪問看護もお医者さまも来てくれたり、何と言ってもまっちの友人たちが入れ替わり立ち替わり出入りして、常に10人以上はこの家にいたと思います。ダイニングやキッチンに集まって、誰かが持ってきたり作ったりしたものをみんなで食べて、時々起き出したまっちが「みんなまだいる?誰が来てるの?」と加わることも。そういう時まっちは元気なときと変わらない抜群のユーモアで笑いを提供してくれていました。

ちょっと変な話なんですけど、あの場は連日とても楽しくて、みんなが常に大笑いしていたんです。たくさん泣いたけど、でも笑ってばかりいました。まさかご病気で伏せている人がいるお宅とは思えないほどで、まっちのことが大好きで大好きで仕方ない人たちが毎日集まった日々でした。

小林さん 本当、普通じゃ考えられないことだと思うんだけど、本当にみんなたくさん泣いて、それ以上に笑っていて、僕自身も、なんか楽しいなという感覚もありました。

松本さん 人が多すぎて玄関に靴が入りきらなくて、軒先に並べられていたくらいでしたよね。みんなの笑い声や話し声は寝室の先生にも聞こえていて、先生は目が覚めると必ず「みんなご飯食べた?」って言ってました。ご自分は食べることが難しくなっていたのに、みんなの食事を気にかけていたのが先生らしかったです。

葉山の自宅では家庭菜園も。新著にも、季節の手仕事を楽しんでいる様子がまとめられている。
葉山の自宅では家庭菜園も。新著にも、季節の手仕事を楽しんでいる様子がまとめられている。

木戸さん 松本さんはあの中でまっちのサポートしながら、本当によくがんばったよ。レシピの確認だけに限らず、まっちが仕事しやすいように素晴らしい動きをしていたと思う。

松本さん 書籍の撮影はもともと4月25日と26日に決まっていたんですよね。でも書籍に載る料理名はやっと揃ったものの、まだ詳細も聞けていないレシピがいくつかありました。こばさんが「まるで、セットリストだけあって歌詞もメロディもないライブみたいだ」と例えたのがおかしくて。それでいて家には毎日たくさんの人が来てるし「もうこれはフェスだな」って。先生も笑ってましたね。

あの頃先生は朝の4時前後に目が覚めることが多くて、結局、撮影当日の朝、2時間以上かけて材料や細かい手順を伝えてくれて、なんとか撮影は終えられました。ただ、細かい確認や修正ポイントを相談する必要があったので、その後もご自宅に泊まり込み、先生の起きるタイミングにお話をうかがっていたんです。

木戸さん まっち自身ほとんど食事はできない状態だったけど、それでも松本さんが調理を終えると、起き上がって味見したり、指示を出したり、写真のチェックもやってたもんね。訪問医の先生もその様子を見ながら、「本来ならもう何かを考えたり判断できる力はないはずなんだけど、なぜそれができているのか分からない」と言っていました。

松本さん 朝の4時前後は意識もはっきりして考えがまとまるみたいで、起きると私を呼ぶように言うんですよね。こっちがヘロヘロで起きていくと「私に聞くなら今がチャンス!」とか言うので毎朝笑わせられながら、確認したいことを質問していました。

スラスラ話せるわけではないのでゆっくりでしたが、やっと歌詞とメロディにあたる新著の全料理の詳細が揃い、私が「これでもう大丈夫です」と伝えると、先生は「よかった。じゃあ、お土産でもらったゼリー食べよう」って言ったんですよ(笑)。編集の鈴木さんの差し入れはいつも気が利いてるから、って。「全種類食べちゃおう」って一口ずつ全種類食べたり、ラ・フランスのことをわざと「このおフランスが好き」と言ったりして、こばさんと3人で大笑いしながら食べました。

始めは茶色で丸型のお皿に盛り付けられていたこのお料理の写真を、白のオーバル皿に変更するように指示したというページ。病床ながら、なんとも冷静で的確なアドバイス。
はじめは丸型で茶色のお皿に盛り付けられていたこのお料理の写真を、白のオーバル皿に変更するように指示したというページ。病床ながら、なんとも冷静で的確なアドバイス。

味見、撮影、取材、原稿チェック。大好きな食をみんなに残す最後の大仕事

ーそれが4月26日ということは、5月1日未明に亡くなる本当に直前までこの本を作られていたんですね。

松本さん そうですね。この本の撮影は4月25、26日で終えた後、29日まで詳細を確認していました。27日には、管理栄養士を目指している人たちに向けたキャリアに関するインタビュー取材もあったんです。その日も朝4時半に起きて、(木戸)久美子さんが差し入れてくれたスイカを少し食べて、「11時に取材のアポですよ」と言ったら、その時ははっきり「はい、わかりました」と答えてくれました。取材は、同席した私が少しサポートはしたものの、最後までご自身で丁寧に答えていました。

担当のライターさんがすぐに書き上げてくれて、翌々日の4月29日には確認できる状態で届いたんです。その時、先生の親友が足をマッサージして、こばさんが先生の背中をさすっているときでしたが、原稿を確認したいと言うので、私は先生の手を握りながら音読しました。読み上げていると、ときどき先生が手をギュッと握る時があって、少しニュアンスを変えたい箇所などを教えてくれるんです。そこで「こういうこと?もしかしてこう変えたい?」と確認しながら、原稿チェックも先生にしてもらうことができました。

舘野さんの キャリアに関するインタビュー記事はウェブ掲載の他、リーフレットとしてご葬儀のご参列者に配られました。
舘野さんの キャリアに関するインタビュー記事はウェブ掲載の他、リーフレットとしてご葬儀のご参列者に配られました。

久美子さん あの時、まっちが少しでも楽に大好きな仕事ができるようにって、こばちゃんも薬のコントロールやケアが素晴らしかったけど、松本さんも本当にすごかった。松本さんがいなかったら、最後のインタビューも、この本もできなかったと思うよ。

松本さん 皆さんそう言って、ありがとうと言ってくださるんですが、私は仕事があったおかげで先生のそばにいられたし、むしろ役得だったと思っています。訪問医の先生がこばさんに余命を説明される時も、「医療や化学では説明できないことがたくさんある」とお話しくださって、「今このタイミングでここにいるあなたも、真知子さんと特別に強い縁があると思うから、一緒に話を聞いてください」と言ってくれました。本当に、不思議なご縁を感じています。

ー本当に、本当に、最後の最後までお仕事をやりきって逝かれたんですね。

久美子さん まさにやりきった、という感じでした。完全燃焼。まっちは仕事が大好きだったから、本当に幸せだったと思います。

松本さん 本の画像チェックをしてもらってる時、先生に、辛くないですか?って質問してみたんです。どうしても無理に無理を重ねて対応してもらっていることが気になってしまって。そしたら「仕事をしてる時は痛みを考えずにいられるから」と言っていました。その時も、じゃあ仕事たくさん入れますね、なんて言って笑いあったりしたんですよ。

おいしいものへの感覚はずっと変わらなくて、本当に最後まで先生らしかったです。毎日たくさんの人が来て本当にたくさんいただきものがあったので「ご両親からのイチゴ食べますか?」とか「ジュースもありますよ」と聞くと、寝ながらあの笑顔で「いいねぇ〜」と答えてくれたりして。それは元気だった頃から変わらない、私と先生のやりとりでした。いつも打ち合わせなどで先生と会う度に、なに食べますか?〇〇もあるし△△もありますよ、といろいろ提案すると、食べたいものに「いいねぇ〜」ってにっこりしていたんです。

最後に口にされたものは、4月29日の朝、栃木のご実家から届いたイチゴ「とちおとめ」と、撮影で作った甘酒をジューサーで合わせたもの。
最後に口にされたものは、4月29日の朝、栃木のご実家から届いたイチゴ「とちおとめ」と、撮影で作った甘酒をジューサーで合わせたもの。

久美子さん あと4月27日はこばちゃんの誕生日でもあったので、みんなと一緒にお祝いもできたんですよ。いろんな人が持ってきてくれたケーキを、こばちゃんに出す前にどんなケーキか確認したりして、そんなところもまっちらしかったね。

松本さん あの時、人がたくさんいたので小さなコップでコーヒーを飲んでいたら「ちゃんとティーカップ使ってよ」って言われました。器は大事、って何度も言われましたね(笑)

思いを込めて、長く受け継がれるものを残す

ー最後まで友情と愛に恵まれながらも、一方で体調は変化される中で、未来の時間が限られていることにどう向き合われていたのでしょうか。

小林さん 「時間がない」という気持ちは強くもっていたと思います。その中で好きなこと、やりたいことをどこまでやり遂げられるか、自分の役目は何なのか。それをひたすら考えながら、やり遂げる強さや覚悟を身につけた10年間だったのかもしれません。

故郷の新聞でコラムを書かせてもらえる機会もあったので、生い立ちを総括したり、自分は何者なんだと考えたり、最後に「ままごとや」の構想ができあがるまで、これまでのキャリアで出会った人たちを振り返っていました。

彼女は病院に勤めていた頃、アイルランドの料理学校に留学する資金を貯めるために、ある喫茶店にケーキを卸していたことがあったんです。月日が経って住む場所も変わったんですが、不思議なご縁で数年前にその喫茶店に行ってみることになったんです。そしたら今もまだ、彼女のレシピでケーキが作られていました。すでに20年くらい経っているというのに、まちが提案したカレーのレシピもそのままでした。料理家の小林カツ代さんは『私が死んでもレシピは残る』で知られていますが、まちもそこで改めて「思いを込めて作ったものは受け継がれる」ということを体感したんです。

あとどのくらいの時間があるのか誰にもわからない中で、自分を徹底的に見つめ直したことで「ままごとや」の構想が生まれました。自分の料理の真髄は何なのかと考えた結果、みんなで食卓を囲み、自分が作ったものを食べながら、誰かの思い出に残るような食事を提供したい。そしてその場に自分も立ち会いたい、と気がついた。だったら利益などを気にせずに、思う存分いい素材と愛情を込めて、好きな人たちを自宅に招こうよ!と話したんです。好きな人たちを全員呼ぶのだって一大事業になるよ、と。

小林さんが見せてくれた舘野さんのノートには、「ままごとや」のコンセプトを綴ったページが。お人柄の良さと、食への愛情に溢れていました。
小林さんが見せてくれた舘野さんのノートには、「ままごとや」のコンセプトを綴ったページが。お人柄の良さと、食への愛情に溢れていました。

木戸さん まっちは本当に一貫して、食卓を囲む大切さを伝えていました。彼女の愛が大きくて寛容だったのも、そうした思いが根底にあったからだと思います。いつだったか、残された時間でやりたいことをたくさん挙げて「一つずつ現実になってきている」と教えてくれたこともありました。外国語での出版なども、成し遂げたいことの一つだったんですよね。

松本さん ただやっぱり落ち込んでいる時もありましたよね。去年くらいから左腕がうまく動かなくなった時とか、薬の影響で肌荒れが出たこともあったし。「松本さんは健康で素晴らしいよ〜」とよく言ってくれていました。

小林さん 左手がだんだん動かなくなった時、佐藤初女さんの本を見返したりしてましたね。前とは違う自分でも今できることを、ゆっくりでも続けようとしていました。三角だったおむすびが丸型になったり、大根おろしもゆっくりしかおろせないんだけど、でもそれによって味がまろやかになったことに気が付いたりして、それまでとは違う気づきに気持ちを向けるようにしていたようでした。

舘野さんは書籍にサインする時、「食卓を囲もう」というメッセージを書くことが多かった。
舘野さんは書籍にサインする時、「食卓を囲もう」というメッセージを書くことが多かった。

「また一緒に料理しましょう」

松本さん ご病気のことは先生と出会ってわりとすぐに聞いていたものの、いつも誰よりも元気だったので、まさかこんなに早くお別れが来るとは思ってもいませんでした。

4月29日に仕事の目処がつき、私がいると先生がいつまでも仕事モードになってしまうと思って自宅に戻ったんです。帰り際、「ゆっくりしてくださいね」とあくまでもいつも通りに伝えました。本の事はあとはまかせて、と。先生とのお仕事は全部楽しくて、まだまだやりたいこともあるし、また一緒に料理しましょうね、ということもお伝えしました。先生はほとんど寝ていましたけど、その時はしっかり目を開けて、うなずいて笑ってくれたので、それは今も私の支えになっています。

最後の数日間を一緒に過ごして、人はこんな風に生きることができるんだ、という姿を見せていただきました。やりたいことを全部やって、会いたい人みんなに会って、こんな旅立ち方ができるんだな、って。先生のことが少しうらやましい気持ちになったくらいです。

先生は以前からよく「愛がある仕事をしなきゃね」と言っていました。それは、自分が気持ちを込めてできる仕事のことで、誰かに伝えたくなるような仕事をしようって。

仕事に限らず、愛のあることを選んでいた先生の生き方そのもののような価値観だと思います。だから最後までみんなに愛されて、また亡くなった後もこうして先生の仕事に感謝できる。先生らしさが詰まったこの本も、たくさんの方のキッチンに届けられたら嬉しいです。

亡くなる直前まで制作に取り組んだ『がんばりすぎない発酵づくり』には、発酵食品を愛する全ての人たちに向けたメッセージが込められています。
亡くなる直前まで制作に取り組んだ『がんばりすぎない発酵づくり』には、発酵食品を愛する全ての人たちに向けたメッセージが込められています。

(取材後記)
私が真知子先生にお会いしたのは、2019年、偶然に恵まれた機会でした。ずっとSNSでフォローしていた真知子先生が目の前に現れて、思いがけず緊張したことを覚えています。その後も何度かお会いできたりお教室に参加したりと、お会いする度に、あの明るい笑顔に惹きつけられ、おいしい食に感動し、お人柄の魅力にどんどんファンになっていました。今回こうしてお三方を通して生き方にまで触れることができ、素直に「あぁ、こんな風に生きたいな」と感じています。真知子先生、本当にどうもありがとうございました。今年の白菜漬けも、お味噌も、麹甘酒も、来年の梅干しも、先生のレシピで作り続けたいと思います。

Close
Copyright © haccola. All Rights Reserved.
Close