「何が入っているのか分からないけど、なんか料理が美味しくなる!」と評判の足助仕込三河しろたまり。今回は、愛知県は碧南市(へきなんし)で代々こだわりの白醤油を作り続ける「日東醸造株式会社」代表取締役・蜷川洋一さんの「白たまり講座」に参加してきました。
この講座は全国各地で開催されており、以前haccolaでもこの講座による手作り白たまりの工程を「小麦を使った白醤油『三河しろたまり』手作りワークショップレポート」という記事で紹介させていただきました。
「料理が美味しくなる!」と評判の足助仕込三河しろたまり
今回は、蜷川さんに地元の味噌醤油文化、また日東醸造の醤油づくりについてのお話を詳しく伺いましたので、その内容をレポートしたいと思います。
✔English article
Rejuvenation of time-honoured Shiro Shoyu. Yoichi Ninagawa from Nitto Jozo talks about his Mikawa Shiro Tamari brewed in Asuke.
愛知の豆味噌から「たまり」は生まれた
愛知には皆さんもよくご存知の八丁味噌、豆味噌があります。通常大豆を蒸して、米麹や麦麹と塩を混ぜ込んで作る味噌と比べ、豆味噌の作り方は少し特殊です。
「玉麹」で作る、特殊な製法の豆味噌
豆味噌を作るにはまず蒸した大豆を潰して団子にし、それ自身に種麹をつけ、団子のまま麹にしていきます。これを玉麹といい、それをそのまま塩と一緒に樽に仕込み重しを乗せて味噌になるまで熟成していきます。
八丁味噌で有名なカクキューとまるや八丁味噌さんで仕込まれる団子の大きさは子どもの握りこぶしくらい。その他の豆味噌蔵では親指くらいの大きさにつくられるのだそうです。
仕込み重しを乗せて熟成させる豆味噌
豆味噌を仕込んだ樽にたまった「たまり」が醤油の起源
その豆味噌を仕込んだ桶にたまったものが「たまり」と呼ばれ始め、今のたまり醤油の起源とされています。昔のおじいちゃんやおばあちゃんは醤油なんて呼ばず、「たまり」と呼んでいたのだそうです。
豆味噌を仕込んだ樽にたまった「たまり」
日東醸造がある碧南は、白醤油の発祥地
その「たまり」が今よく知られる濃い色の醤油であるのに対し、幕末から明治にかけて碧南では「白醤油」というものが作られ始めました。こちらの色は一般的に知られる醤油の色に比べてずっと薄く、いわゆる「琥珀色」。日東醸造がある碧南は、その白醤油の発祥地なのです。
小麦で仕込んだ金山寺味噌の上に溜まった「たまり」が白醤油(白たまり)の始まりか?
豆味噌に浮かぶ濃い色の醤油がたまりと呼ばれるのに対し、この白醤油は白たまりとも呼ばれますが、その起源はたまり醤油と同じく小麦で仕込んだ金山寺味噌の上に溜まった色の薄い液体部分がその始まりではないかと言われています。それが料理人用の特別な醤油として使われ始めたのが約200年前。
白醤油とは、自己主張しない、控えめに使うお醤油
今では愛知のうどん屋に行くと白いつゆと黒いつゆが使われているのだそうです。普通のうどんには旨味のきいた豆味噌からとれるたまり醤油ベースのつゆが、天ぷらや卵とじうどんには出汁の引き立つ白醤油ベースのつゆが使われています。
蜷川さんによると、白醤油とは「自己主張しない、控えめに使うお醤油。でも入れないより美味しいよね。これ何が入っているの?みたいな使い方で、入れすぎると逆にバランスが取れなくなる」もの、とのことでした。
日東醸造の白醤油づくり。原材料の見直しから
では、もともと白醤油屋だった日東醸造さんはなぜ白たまりを造るようになったのでしょうか?
そのきっかけは先代会長の想いにありました。
先代の「今作っている白醤油は、昔の白醤油と違う」という発言が原材料見直しのきっかけに
「白たまりが商品としてスタートしたのは25年前の平成5年です。昭和の終わり頃、先代会長がこう言ったんです。『どうも今俺が作っている白醤油ははもともとあった昔の白醤油とちがう』と。愛知は農業が盛んで、例えば渥美半島では葉物野菜やメロンなど盛んに栽培されていたりと意外に農業県でそれが醸造が色々盛んになった理由でもあります。ですが戦後はお米以外の自給率はガタガタで、醤油の原材料となる小麦と大豆は輸入に頼る状態。日本産の小麦大豆は今でもありますが、絶対量が少ないのでうち(日東醸造)に回ってくるのもほとんど輸入ものという状態でした。先代はそこに目をつけたんですね。」
また、大豆を見直すなら塩も、と日東醸造はこだわり始めます。昔は三河湾沿いや碧南にも塩田があり、最大のものは吉良の塩田でした。ここには忠臣蔵に出てくる吉良上野介さまのご領地があります。
「ちなみに忠臣蔵の話は一部事実なんですよ。なぜ吉良さんと赤穂の浅野さんが仲が悪かったかというと、このことが発端だったと地元では言われています。」と蜷川さんはにやりと笑います。
忠臣蔵(赤穂事件)は、塩争いのために起きた!?
「当時赤穂の塩は日本一と言われていて、すごく品質の良い塩を作っていた。吉良さんのとこも塩を作っていたが、品質的に勝てない。なので吉良さんが浅野さんのところに作り方を教えてと言ったところ、断られてしまったことがそもそもの発端。その後、吉良さんは浅野さんの教育係だったにもかかわらず、きちんと指導しなかったため、浅野さんが頭にきて刃傷に至った、と言われています。」
日本中から消えた塩田
昭和46年、日本には塩業近代化臨時措置法ができてから塩は化学的に製造されるようになりました。伝統的な塩作りはできなくなり、日本中から塩田が消えました。塩は工場でつくるもの、と専売法で決められ、勝手に作ることが禁止されたのです。
工場生産と当時の専売法のため、塩の市場価値が崩壊
当時は高度成長期で塩(塩化ナトリウム)は主に工場用に製造されていたため、塩田で手間暇かけて作っていては間に合いません。国は工場を6箇所たて、海水から塩化ナトリウムを抽出する方法に切り替えました。よって塩の市場価格は一気に崩落します。
現在は、国産の自然塩が復活してきている
工場で作られる塩は、純度99%の塩化ナトリウム。塩田で作られる塩は純度が85%くらいで残りはミネラルです。工場生産ではそのミネラルがすべて除去されてしまいますが、ミネラル分が抜けている塩は食べても美味しくありません。幸い平成9年には塩専売法が廃止され、今は国産塩の製造販売が自由化され自然塩が復活してきています。
流下式塩田
日東醸造・蜷川さんの塩へのこだわり
「足助仕込三河しろたまり」に伊豆大島の自然塩「海の精」が使われている理由
蜷川さんは、白たまりに一番合う塩として伊豆大島の海の精を使用されていますが、それにはもう一つの理由がありました。海の精の歴史はすなわち日本の塩の歴史であり、昭和46年から自然塩復活運動を行ってきた運動家たちが始めたのが、今の海の精の前身の組織なのだそうです。そのことから、海の精を応援することは自分の仕事の一つだと思われているとのことでした。
そんな歴史を辿った塩が、日東醸造の先代会長が昭和の終わり頃にもう一度200年前碧南で始まった昔ながらの醤油づくりを取り戻そうと目指す最初のきっかけとなりました。
そして平成5年、「三河白たまり」という商品が日東醸造から生まれます。
変えたのは、もちろん国産の塩田塩。
国産の塩田塩
さて、もうひとつは…。
日東醸造の白たまり作り方大改革、色へのこだわり
小麦100%、美しい琥珀色の白醤油(画像提供:日東醸造)
塩にこだわり始めた日東醸造さんがもう一つ変えたのが麹と塩水の比率。
「白醤油屋は麹1に対し塩水が2」というのが定番なのだそうですが、日東醸造が白たまりを造り始めようとした時に、先代会長がそれを変えたい、塩水を半分にしたいとおっしゃったのだそうです。蜷川さんはできる醤油の量が減るので初めは反対されたのだそうですが、味が濃くなって美味しくなるんじゃないかと先代は決行。とにかく試作品を造ってみたところ確かに味は美味しかったのですが、今度は色が濃くなってしまったのだそうです。
平成5年、小麦100%の白醤油がデビュー
『白醤油の特徴は、色。その色が濃くなってしまうと薄口醤油になってしまう。なんとか色はそのままで味だけ濃くできないか。』
そんな試行錯誤の中、蜷川さんは小麦100%の醤油を試作します。たった5%の大豆を減らしただけですが、それをなくすことで色が薄くなるはず、という狙いが見事に的中!ようやく、平成5年に新しい白醤油は市場へデビューします。ところが…。
白醤油、予期せぬ事態に
やっとの思いでスタートを切った白醤油でしたが、平成13年、日東醸造に農林水産省から書類が送付されます。そこに書かれていた内容は、『日東醸造が製造販売している三河白たまりは醤油に該当しないのに醤油と表示しているのでJAS法表示違反である、ただちに改善しなさい』というもの。
大豆を使っていない醤油は醤油ではない!?
実は、JAS法では醤油に大豆が必ず使用されていることが定義づけられています。それは蜷川さんも当時ご存知だったのですが、JASマークをつけなければその制約を受けないとすっかり思い込んでおられたのだそうです。ところが日本には品質表示基準制度という別の法律が存在し、そこで大豆が醤油の必須原料とされているため品名表示の改正が必要になってしまったのでした。
究極の選択を迫られた、日東醸造・蜷川さん
その時、蜷川さんの手には2つの選択肢がありました。
ひとつは、今までどおりの醤油づくりを続け表示を改正するという選択。
もうひとつは、JAS法に則って大豆を少量でも使用するという選択。
蜷川さんが即座に取ろうと思った方は、極微量の大豆を入れ醤油という表示をそのままにするという解決法でした。そうすれば、色も味もほぼ変わらず、表示基準も満たすことができる。農林水産省もそれなら良いと快諾してくれました。
お客様の声に心を動かされ、「醤油」ではなく「小麦醸造調味料」と表示することに
ただ白たまりをスタートしてから8年も経ってしまっていたため、念の為蜷川さんはお客様に手紙を出すことにしました。そこで蜷川さんはうっかり書く内容を間違えてしまいます。
「極微量の大豆を入れますので、よろしく、と書けばよかったのに、どちらが良いですかと書いてしまったんですよ。すると、驚いたことに手紙を書いたお客さんが全員、『名前なんてどうでもいいから大豆をいれないでくれ』と返信してきたんです。」
これには驚いた蜷川さん。よくよくヒアリングをしてみると、『醤油は醤油だろ、今まで入っていなかった大豆が入るほうが不自然だ』というお客様の意見。蜷川さんとしては「醤油屋としては、自分の作っているものを醤油と公式に呼べないのは仕事を否定されているような気がして複雑」だったそうです。「でも、お客さんの言うことももっともだと思った。」
それ以来、三河白たまりは製造方法はそのまま、「小麦醸造調味料」と表示されることとなりました。
「小麦醸造調味料」と表示された「足助仕込三河しろたまり」のラベル
究極の仕込み水を求めて
大豆、小麦、塩、と、とことんこだわり始めた日東醸造。今度は最高の水を仕込み水に使いたいと思い始めます。
碧南の仕込蔵にも井戸があるそうですが、蜷川さんが会社に戻った34年前は仕込みに水道水を使用していました。当時は何の疑問も抱かずに仕込みをしていたものの、白たまりを始めた頃からお客様から色々な質問を受けるようになったそうです。
水へのこだわりも、お客様の声がきっかけに
「小麦は愛知県産で、塩は工場製の塩でなく海の精で…とこだわりを見せていたが、水はどこの水ですかと聞くお客さんまで出てきた。どんどんそういうお客さんが増えてきたので、そもそもうちに井戸水あるのにどうしてそれを使って仕込みをしちゃダメなんだろうと思うようになった。水質検査は毎年受けていたし、飲料にも問題ない水だった。でも保健所に相談にいくと、井戸の水というのは、年に1回2回の水質検査で大丈夫でも、いつも大丈夫だとは限らないよと言われたんです。例えば大雨が降った後など水質なんて変わっているかもしれない。それに比べて水道水は、水道法で管理してるから安全でしょ、と言われたわけです。」
愛知県豊田市足助町で理想の水に出会う
愛知県の奥三河、足助町の山あいの集落(画像提供:日東醸造)
地元の酒蔵は井戸水で仕込みをしているのになぜ醤油屋はだめなんだろう、などの疑問点から腑には落ちなかったものの、幸運にもその時偶然、愛知県豊田市の足助という山奥の集落とご縁が繋がります。
山々に囲まれ、あと10分も車で走ると長野県というような集落で、そこの町助役さんに蜷川さんは出会います。
「醤油の仕込みに使えるおいしい水はありますか」と相談したところ、助役さんは快く蜷川さんにいくつかの場所を教えてくださり、そのうちの一箇所が家が20件、人口が40人というような小さな集落だったそうです。
その集落の中心には昭和の終わり頃に廃校になったという「大多賀小学校」がありました。蜷川さんがこのグラウンドにある井戸水を飲んでみたところ、とても柔かく、その美味しさに感動されたそうです。
半年間もの間通い詰めて、足助の水を醤油づくりに使うことの許可を得る
その足で足助の保健所に行った蜷川さん、初めはその水を醤油づくりに使うことを許可してはもらえませんでした。しかしこの井戸水と環境に惚れ込んだ蜷川さんは諦めず、月に2.3回ほど、半年の間、保健所に通われたそうです。その熱意のおかげで、保健所からようやく「半年に一度、その保健所に自主的にその井戸水を持っていって水質検査を受けること。」「万一結果が悪かったらただちに使用を中止する」という条件付きで許可を出してもらうことができました。
山の上での醤油づくりが始まる
碧南から足助までは、車で2時間ほど。初めはトラックにタンクをのせて水を汲みに行こうと思っていた蜷川さんでしたが、保健所に通っているうちに「ここで仕込みたい」と思い始めました。
足助の涼しい環境は、白醤油作りにピッタリ
というのも、水を汲む井戸があるところは標高720メートル。真夏でも30度に達しないため集落にもエアコンなんてついている家はないという涼しい環境。真夏の高い気温は醤油の色を濃くしてしまうので、足助はとても有利な環境だと蜷川さんは気づいたのでした。
廃校を醤油の仕込蔵に
廃校となった「足助町立大多賀小学校」に「日東醸造足助仕込蔵」を開設(画像提供:日東醸造)
早速最初にこの場所を紹介してくださった助役さんにこの小学校を醤油の仕込みに使ってよいかと尋ねると、なんと二つ返事で承諾をもらえてしまいます。実は、当時足助町では6件の廃校処分が決まっており、助役さんは選択肢として人に貸すか、お金をかけて取り壊すかと頭を悩ませておられたのでした。
そこへタイミングよく現れた醤油屋の蜷川さん。助役さんとしても廃校の使い道が見つかり大助かり。蜷川さんにとっても低コストで仕込み場所を貸りることができ、お互いにWINWINの契約となりました。
初めは年間の家賃もいくらでもいいとまで言われてしまったそうですが、そんな僻地に醤油屋が乗り込んでいっても地元にとってはメリットがないと考えた蜷川さんは、毎月の家賃からいくらかが地元の収益として落ちるようにと金額を設定されました。
こうした流れで、ようやく日東醸造は足助に仕込蔵を構えました。白たまりは足助で4ヶ月くらい熟成させられ、その後碧南で仕上げを施され瓶詰めされます。今回の手作り白たまり講座にも足助の水を持ってきてくださいました。ちなみに、白たまりを作るための麹用の種麹は、糀屋三左衛門さんが昔から白醤油用のカビを培養し続けてくださっているそうです。
支え合う醸造発酵文化
地域での発酵醸造のネットワークを作りたい
蜷川さんが最後にお伝えされていて私が一番再感動したことは、この地域での発酵醸造のネットワークを作りたいというお話でした。それぞれの蔵が自分たちの商品だけを紹介するのではなく、醤油屋、味噌屋、酒蔵に酢屋が相互に周りの地元の醸造物について語り続けていくことが、地域の文化を伝える最善の手段なのではないかとお話されており、やはり愛知の発酵醸造地元愛とネットワークはすごい、と改めて感銘を受けました。
✔English article
Rejuvenation of time-honoured Shiro Shoyu. Yoichi Ninagawa from Nitto Jozo talks about his Mikawa Shiro Tamari brewed in Asuke.
関連リンク
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